デザイン思考でSaaSプロダクトのUI/UXを劇的に改善し、顧客エンゲージメントを高めた事例
はじめに
デザイン思考は、単に「デザイン」のプロセスではなく、人間中心のアプローチを通じて革新的なソリューションを生み出すための強力なフレームワークです。特にプロダクトマーケットフィットの確立や急速なスケールが求められるスタートアップにおいて、デザイン思考は顧客の真のニーズを捉え、競争優位性を築く上で不可欠な要素となり得ます。
本記事では、あるSaaS(Software as a Service)スタートアップが、初期段階で直面したUI/UXの課題をデザイン思考によって克服し、顧客エンゲージメントと事業成長をどのように実現したのか、その具体的な事例を詳細に分析します。
事例:SaaSスタートアップ「FlowUp」の挑戦
今回取り上げるのは、中小企業向けタスク管理・プロジェクト進捗管理SaaS「FlowUp」(仮称)です。FlowUpは、リリース当初、特定の機能においては競合優位性を持っていましたが、ユーザーからは「使い方が分かりにくい」「導入しても定着しない」といった声が多く寄せられていました。これにより、新規顧客獲得に苦労し、さらに既存顧客の継続率が低いという課題を抱えていました。
経営チームは、プロダクトの機能自体に問題があるのではなく、ユーザーが価値を十分に享受できていない、つまりUI/UXに根本的な課題があると認識し、デザイン思考のアプローチを導入することを決定しました。
デザイン思考導入の背景と動機
FlowUpがデザイン思考の導入を決めた主な背景には、以下の点がありました。
- 顧客課題の深掘り不足: 従来の開発プロセスは、内部の想定に基づいた機能開発が中心で、実際のユーザーがどのような文脈で、どのような感情を抱えながらプロダクトを使用しているのか、深く理解できていませんでした。
- 高い顧客離脱率: 特にオンボーディング期間中の離脱率が高く、ユーザーがプロダクトの価値を実感する前に使用をやめてしまう状況でした。これは、直感的でないUIや複雑な操作性に起因すると考えられました。
- チーム間の連携不足: プロダクト、開発、マーケティング、カスタマーサクセスといった各チームが、顧客に関する情報を断片的にしか把握しておらず、一貫した顧客体験を提供するための共通理解が不足していました。
これらの課題を解決し、ユーザー中心のプロダクト開発文化を根付かせるために、デザイン思考が最適なアプローチであると判断されました。
具体的なデザイン思考プロセス
FlowUpのデザイン思考プロジェクトは、以下のフェーズで進められました。
1. Empathize(共感)
- 目的: ターゲットユーザーのニーズ、課題、行動、感情を深く理解する。
- 活動内容:
- ユーザーインタビュー: 既存顧客、過去の離脱顧客、ターゲットとなりうる未導入企業に対し、合計20社以上への定性インタビューを実施。具体的な業務フロー、タスク管理における悩み、FlowUp使用時の戸惑いなどを深く聞き出しました。
- シャドーイング/観察: 実際にユーザーがFlowUpやその他のツールを使って業務を行う様子を観察し、隠れた課題や非効率なプロセスを発見しました。
- サポートデータ分析: カスタマーサポートに寄せられた問い合わせ内容やFAQの参照履歴を分析し、ユーザーがどの機能や操作でつまずいているのかを定量的に把握しました。
- 活用ツール/フレームワーク:
- インタビューガイド: 構造化された質問リストを作成。
- 共感マップ(Empathy Map): ユーザーが「見ていること (Sees)」「聞いていること (Hears)」「考えていること (Thinks)」「感じていること (Feels)」「言っていること (Says)」「行っていること (Does)」「ペイン (Pains)」「ゲイン (Gains)」を整理。
- ペルソナ: 収集したデータに基づき、主要なターゲットユーザーとして「日々のタスクに追われるチームリーダー」「プロジェクト全体の進捗を把握したいマネージャー」など、具体的なペルソナを3つ設定。彼らの目標、課題、動機を明確に記述しました。
2. Define(定義)
- 目的: 収集した情報から、解決すべき真の課題を明確に定義する。
- 活動内容:
- 課題の構造化: 共感フェーズで得られたインサイトを基に、ユーザーの「ペイン」を深掘り。「使い方が分かりにくい」という表面的な課題の裏にある、「重要な情報を見つけるのに時間がかかる」「タスクの優先順位付けが難しい」「チームメンバーの状況が把握できない」といった具体的な問題点を特定しました。
- PoV(Point of View)の明確化: 「〇〇(ユーザー)は△△(ニーズ)を必要としている。なぜなら□□(インサイト)だからだ。」という形式で、ユーザー視点での課題定義文を作成しました。例: 「中小企業のチームリーダーは、チーム全体のタスク状況を簡単に把握することを必要としている。なぜなら、日々のタスクに追われ、個々の進捗報告を待つ余裕がないからだ。」
- カスタマージャーニーマップ: ユーザーがFlowUpを知り、契約し、日常的に使用し、課題に直面し、解決するまでのプロセスを可視化。各タッチポイントでのユーザーの行動、思考、感情、そしてペインポイントを特定しました。
- 活用ツール/フレームワーク:
- PoVステートメント
- カスタマージャーニーマップ
- アフィニティダイアグラム: 収集したインサイトをグループ化し、隠れたパターンやテーマを発見。
3. Ideate(創造)
- 目的: 定義された課題に対する、多様な解決策のアイデアをできるだけ多く生み出す。
- 活動内容:
- ブレインストーミングセッション: チーム横断(プロダクト、開発、デザイン、CSなど)で、定義されたPoVやペインポイントに対する解決策を自由に発想。「How Might We...?(どうすれば私たちは...?)」という問いかけ(例: 「どうすれば、チームリーダーがタスク状況を簡単に把握できるようになるか?」)を用いて発想を促進しました。
- アイデアの絞り込み: 発想された数百個のアイデアを、実現可能性、ユーザーへのインパクト、ビジネス目標との整合性などの観点から評価し、優先順位付けを行いました。
- 活用ツール/フレームワーク:
- ブレインストーミング
- How Might We...? (HMW) 問い
- アイデア行列(Idea Matrix): アイデアを分類・整理。
4. Prototype(プロトタイプ)
- 目的: アイデアを具体的な形にし、ユーザーからのフィードバックを得られる状態にする。
- 活動内容:
- 低解像度プロトタイプ: 素早くアイデアを検証するため、手書きのスケッチやワイヤーフレーム、FigmaやSketchなどのツールを用いたモックアップを作成しました。
- インタラクティブプロトタイプ: 主要なユースケースに焦点を当て、ユーザーフローを体験できるインタラクティブなプロトタイプ(例: InVision, Protopie)を開発しました。
- MVP(Minimum Viable Product)開発: 最も重要な機能や改善点を絞り込み、実際のユーザーに提供できる最小限の機能を持つバージョンを開発し、限定的にリリースしました。例えば、「タスク進捗の簡易ダッシュボード機能」や「コメント機能のUI改善」などです。
- 活用ツール/フレームワーク:
- ワイヤーフレームツール(Figma, Sketch, Adobe XDなど)
- プロトタイピングツール(InVision, Protopieなど)
- MVP開発
5. Test(テスト)
- 目的: プロトタイプやMVPをユーザーに試してもらい、フィードバックを収集・分析する。
- 活動内容:
- ユーザーテスト: 作成したプロトタイプやMVPを、設定したペルソナに近いユーザーに実際に使用してもらい、操作中の行動観察、発話プロトコル、インタビューを通じて定性的なフィードバックを収集しました。
- A/Bテスト: MVPとして実装した新機能やUI改善について、特定のユーザーグループに対してリリースし、旧バージョンと比較して利用率や滞在時間、目標達成率などの定量的なデータを測定しました。
- データ分析: プロダクト分析ツール(例: Amplitude, Mixpanel)を用いて、ユーザーの行動データ、機能利用率、離脱ポイントなどを詳細に分析しました。
- 活用ツール/フレームワーク:
- ユーザーテスト手法(モデレーター付き、非モデレーター付き)
- A/Bテストツール
- プロダクト分析ツール
デザイン思考のプロセスは線形ではなく、FlowUpのチームはテストフェーズで得られたフィードバックを基に、EmpathizeやDefineフェーズに戻り、課題の再定義やアイデアの再考を繰り返し行いました。この継続的なイテレーションが、プロダクトの改善に不可欠でした。
直面した課題とその解決策
デザイン思考の導入と実践において、FlowUpはいくつかの課題に直面しました。
- チーム内のデザイン思考への理解度: 当初、特に開発チームの一部には「デザイン思考はデザイナーの仕事だ」「開発スケジュールが遅れるのではないか」といった誤解や懸念がありました。
- 解決策: 全員参加型のデザイン思考ワークショップを定期的に開催し、プロセス全体の価値や、いかに自分たちの業務に貢献するのかを体験を通じて理解してもらいました。特に、開発者もユーザーインタビューに参加することで、顧客への共感を深める機会を設けました。
- ユーザーフィードバックの解釈と優先順位付け: 大量の定性・定量フィードバックが集まる中で、どれが本当に重要な課題で、どの改善を優先すべきか判断が難しい局面がありました。
- 解決策: ペルソナとカスタマージャーニーマップを共通の基準として、フィードバックがどのペルソナの、ジャーニーのどの段階の、どのペインポイントに関連しているかを明確に紐づけました。また、影響度(解決した場合のユーザーへのメリット)と実現可能性(開発コスト)の二軸で評価するフレームワークを導入し、客観的な優先順位付けを行いました。
- リソースと時間の制約: スタートアップであるため、限られたリソースの中でデザイン思考のプロセスを効率的に進める必要がありました。
- 解決策: 全てを完璧に行うのではなく、「課題定義のために最低限必要なインタビュー数」「検証したい仮説に対する最も効率的なプロトタイプ手法」など、各フェーズの目的を達成するための最小限のアクティビティに焦点を絞りました。また、週次の進捗共有会で課題やボトルネックを早期に発見し、迅速に対応する体制を構築しました。
デザイン思考がもたらした成果
デザイン思考のアプローチを継続的に実践した結果、FlowUpは以下の具体的な成果を達成しました。
定量的な成果
- 顧客オンボーディング完了率: 25%向上
- (初期のユーザーテストとジャーニーマップ分析に基づき、オンボーディングフローの複雑性を特定。プロトタイピングとA/Bテストを繰り返し、チュートリアルや初期設定のUI/UXを改善した結果)
- 主要機能の利用率: 平均35%増加
- (ユーザーインタビューや行動データ分析から、埋もれていた重要な機能への導線を改善。また、ペルソナに合わせた機能表示のカスタマイズオプションを追加した結果)
- カスタマーサポート問い合わせ件数: 18%減少
- (ユーザーテストで頻繁に発生した操作上のつまずきを特定し、UIの明確化やヘルプガイドへの導線を改善した結果)
- 顧客継続率 (6ヶ月時点): 15%向上
- (全体的なUI/UX改善によるプロダクト満足度の向上、およびペルソナに合わせた定着支援策の実施結果)
- 新規顧客獲得コスト (CAC): 10%削減
- (既存顧客の満足度向上による口コミ効果や、プロダクト自体の使いやすさによるフリートライアルからの有料転換率向上に起因)
定性的な成果
- 顧客満足度の向上: NPS(ネットプロモーター スコア)が測定開始以降、継続的に上昇傾向を示しました。
- チーム間の連携強化: デザイン思考プロセスを通じて、プロダクト、開発、ビジネスサイドが共通の顧客理解を持つようになり、部門間の壁が低減し、より協力的な開発体制が構築されました。
- プロダクト開発文化の変化: 従来の機能主導型から、よりユーザー中心のアジャイルな開発文化へと移行し、チーム全体が顧客の声を重視するようになりました。
- 革新的なアイデアの創出: 定期的なアイデア創造セッションやユーザーからの深いインサイトにより、従来の延長線上にはない新しい機能やサービス開発のアイデアが生まれるようになりました。
成功要因の分析と他の事例への示唆
FlowUpのデザイン思考による成功は、以下の要因に起因すると考えられます。
- 経営層の強いコミットメント: デザイン思考を単なる手法としてではなく、組織文化を変革する取り組みとして捉え、経営層が積極的に関与し、リソースを投入したこと。
- チーム横断的な参加: デザイナーだけでなく、開発者、プロダクトマネージャー、マーケター、カスタマーサクセス担当者など、多様なバックグラウンドを持つメンバーがプロセス全体に参加し、多角的な視点を取り入れたこと。
- 定量的・定性的なアプローチの組み合わせ: ユーザーテストやインタビューといった定性的な手法で深いインサイトを獲得しつつ、A/Bテストやプロダクト分析ツールを用いた定量的なデータで施策の効果を測定・検証したこと。これにより、感覚だけでなく、データに基づいた意思決定が可能になりました。
- 迅速なイテレーション: 全てを完璧にしようとせず、素早くプロトタイプを作成し、ユーザーからのフィードバックを得て改善するというサイクルを高速で回したこと。MVP開発はその最たる例です。
- 顧客中心の文化醸成: 全員が顧客の課題解決にフォーカスするという意識を共有し、顧客の声を常にプロセスの中心に置いたこと。
これらの成功要因は、FlowUpに限らず、デザイン思考を活用してプロダクトやサービスを改善・開発しようとする他のスタートアップや事業にも応用できる示唆に富んでいます。特に、初期段階でユーザー定着に課題を抱えるSaaS企業にとって、顧客の真のニーズを深く理解し、使いやすいUI/UXを実現することが、持続的な成長のための鍵となります。
まとめ
SaaSスタートアップ「FlowUp」の事例は、デザイン思考がプロダクトのUI/UX改善において非常に効果的なアプローチであることを示しています。ユーザー中心の深い共感から始まり、明確な課題定義、創造的なアイデア発想、迅速なプロトタイピングとテストというプロセスを通じて、FlowUpは顧客の真のニーズに応えるプロダクトへと進化を遂げました。
これにより、顧客オンボーディング完了率の向上や顧客継続率の向上といった定量的な成果はもちろん、チーム間の連携強化や顧客中心の文化醸成といった定性的な成果も得られました。デザイン思考は、単にプロダクトを良くするだけでなく、組織全体のオペレーションや文化にも良い影響を与え得る変革ツールとなり得ます。
デザイン思考の専門家として、こうした具体的な成功事例から学び、自身の業務やクライアントへの提案に活かしていくことが、更なる専門性向上に繋がるでしょう。FlowUpの事例が、デザイン思考の実践における具体的なイメージや、その可能性を理解する一助となれば幸いです。